子どもたちに囲まれる城守大輔くん

子どもたちに囲まれる城守大輔くん

タンザニアで活動を終え、城守くんは9/21に帰国しました。以下が報告第一報です。帰国報告会は11/30に予定しています。
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みなさん、こんにちは。
Raleigh Tanzania 参加者の城守大輔です。先日、日本に帰ってきました。お風呂のありがたみをかみしめています。

タンザニアにいた時は「いまおれはアフリカにいるぞー!」という実感があまりなく、ふとしたはずみに「あ、いまアフリカにいるんだなぁ」と思い出す感じでした。いまは逆に、「日本に帰ってきた!!」という実感がなく、じわじわと日本での日常に身体が慣れてきている感じです。日本での日常の感覚を取り戻していくにつれて、タンザニアでの日々を思い出し、一体あれは何だったのだろうと狐に化かされたような、そんな気持ちにさせられます。

タンザニアで何をしてきたの?と聞かれると答えるのがすごく難しくて、トレッキング…?ボランティア..?ホームステイ…? 持続可能な社会を考えること…? どれもその通りなのですが、総括するにはあまりにもしっくりこなくて。帰国してからずっと考えていたのですが、たぶん最も今の感覚に近い言葉は「生きてきた」だと思います。
トレッキングはもちろんのこと、村での生活も現代の日本の生活とはかけ離れていて、私が滞在したマタンガ村は、電気はあるものの、電化製品はほとんどありません。冷蔵庫も、テレビも、洗濯機も、電子レンジも、ガスコンロも、掃除機もなくて、水道だってありません。(村や都市によってはテレビや冷蔵庫、ガスコンロがあるところもあります。)料理は炭に火をつけること、木に火をつけることから始まりますし、水はどこからか大きなボトルを何個分も自転車で汲んできます。シャワーは、バケツに水をいれての水浴びで、洗濯も手洗いです。私が滞在した村ではほぼ全てが手作業で、その分たくさん時間もかかり、「あ、生活するってこういうことなんだな」「なんか生きてる実感がする」そんなことを思いました。ごつごつした手ごたえのある生活とでも言うのでしょうか。
でもそれは貧しさとか、大変そうとか、かわいそうとかそういうことではなくて、数十年前の日本もおそらく似たような感じだっただろうし、人の営みという意味ではタンザニアの村だろうが東京だろうが、全く変わらないなとも思ったのです。

私の朝は、ホームステイ先の3姉妹が学校に行くのを見送るところから始まります。姉妹はそれぞれオリビア(12歳)・スザンナ(8歳)・レイチョウ(8歳)。彼女たちは6時くらいに起き、眠そうな顔で制服(白ワイシャツにタンザニアの国旗模様のセーター)に着替え、きれいな白い靴下と靴を履きます。水をためた大きなバケツからペットボトルに水を移し、準備ができたら私に「バーイ~」と言って3人そろって家を出ます。あたりはもう明るくなっていて、通りではお母さんたちが箒で家の前を掃いたり、歯磨きをする人がいたり。鶏が元気よく鳴く声はあちこちから聞こえてきます。この光景は生活のほんの一部ですが、本質は日本とそんなに変わらないと思いませんか?
タンザニアに来る前に、いろんな方から「大丈夫?」というような心配のお声をいただきましたが大都市の一部を除けば、タンザニアはのどかで、人々も人懐っこくて温かくて、本当にいいところなんです。こういう表現が適切かどうか分かりませんが、イメージだけでいうと、ふるき良き日本、「ALWAYS三丁目の夕日」そんな感じです。

人々が温かい一つの例として、村で見た夕日がとりわけ印象に残っています。1人でふらっと村を散歩していた時のことです。見知らぬ子どもたちがもじもじ、にこにこ、ぴょんぴょんしながら集まってきて、「マンボー!(こんにちは)」「ジナ ラコ ナニ?(名前はなに?)」と話しかけてきてくれました。しばらく遊んで、彼らに言われるがままにあとをついていくと村のはずれにある家にたどり着きました。そこにいたお母さんも、ムズング(外国人)に驚くことなく笑いながら「カリブー!(いらっしゃい)」と迎え入れてくれて、持っていたサトウキビを半分分けてくれました。さらに、お母さんと子どもたちに手を引かれるままに家の裏手に行くと、そこにはきれいなオレンジ色の夕日が山の向こうに沈みゆく景色が広がっていたのです。促されるまま私がそこにあった長イスに座ると、いつのまにか10人くらいに増えていた子どもたちや、お母さんたちも私を囲むように座り、一緒に夕日が沈んでゆく様子を見守りました。
みんな私に興味津々で色々話しかけてくるので、「ナセマ キスワヒリ キドゴ(スワヒリ語少しだけ話します)」「ミーミ二 ムジャパニ(私は日本人です)」「ナイトワ ダイスケ(名前は大輔です)」「ナぺンダ マタンガ(マタンガ村が好きです)」などと言ってあとは笑ってごまかし(笑)、子どもたちに「ウナジュア?(これ知ってるか?)」と聞いて、タンザニアの子どもたちがよく歌うキチェケショの歌を一緒に歌ったりしました。しばらくすると、うれしいことに、誰彼ともなく手洗いの歌を歌いだし、みんなであたりが真っ暗になるまで歌いました。手洗いの歌は7ステップの手洗いの仕方を歌にしたもので、Raleighのボランティアが小学校で教えたものでした。
実は村を去る前日も夕日を見ようとこの場所を訪れたのですが、家の裏手に行くとすでにこの家のお父さんが長イスに座って娘と夕日を見ていました。突然やってきたムズング(私)を見て驚く様子もなく、「カリブー!」と隣に座らせてくれて、夕日が沈み、空がまばゆいオレンジ色から茶色、そして濃い紺色に変わっていく様子をみんなでじっと見つめていました。カリブーしてくれたことに感謝の気持ちを伝えたくて「ナペンダ アパ(ここが好きです)」と繰り返す私を、お父さんはそうかそうか、と苦笑いで見送ってくれたのでした。
タンザニア人の中にはけっこう図々しいやつもいて(もちろん人によりけりです)、ものをねだってくる分にはまだかわいいのですが、中には「なんでくれないの!?」ともらって当然みたいな態度でくるやつもいました。そういう文化の違い?も面白かったです。良く言えばたくましいというか。じゃあお前のこれもらうね、とか言うと「ダメダメ!やっぱいい!」みたいな。そんな駆け引きも身につきました。

そもそも私たちRaleighボランティア13人がマタンガ村でしていたことは、ムチュングチョーレ小学校のトイレ建設です。3つの期間のうち最後の期間にマタンガ村に来た私たちの主な仕事は、先の2つの期間である程度作られていたトイレの仕上げ、生徒や村の人々にトイレの使い方・維持の仕方を徹底させること、オープニングイベントを開くことでした。村には19日間滞在し、平日の朝8時~夕方4時過ぎまでトイレづくり・学校での授業をしていました。小学校は村から歩いて25分くらいかかるところにあり、見晴らしの良い広い一本道を、左側にアフリカの太陽を感じながら学校まで歩いて通います。子どもたちは日々次第にできていくトイレに興味津々で、休み時間にはひょっこりのぞきにきたりしていました。トイレづくりでは、セメントなんかも土と粉と水を混ぜて自分たちで作るんですね。知らないことばかりで毎日が学びでした。授業も面白くて、教室でレクチャーしてから実際にトイレに生徒を連れて行って使い方を説明するのですが、話を真剣に聞いてくれる子もいれば、隣の子とのおしゃべりに夢中になっている女子、ちゃちゃをいれてくる男子など、日本の小学生と全然変わらないです。
オープニングセレモニーには村の人々や子どもたち、州の高官など約500人が参加し完成を祝いました。私が思っていた以上に反響は大きく、改めて今回のボランティアの意義を実感しました。ですが、それ以上に私たちのボランティアの成果を実感できたうれしい出来事がありました。オープニングセレモニーの翌々日に後片付けをしに行った時のことでした。ランチの時に学校の近くに住んでいる4歳くらいの女の子が遊びに来てご飯を欲しそうにしていたので、メンバーの一人が手招きをして呼びました。その女の子が手を洗う時、なんと手洗いの7ステップで洗っていたのです。小学校でしか教えていないはずの手洗いの7ステップがこんな小さな子にまで浸透し、さらにそれをきちんと実践してくれていたことに感動しました。

私は実際にトイレが使われているところまでは見られなかったので、いまあのトイレを子どもたちはどういうふうに使ってくれているのだろうかと、行って見てみたい気持ちに駆られます。同じように、いまママは料理をしているのかな、スザンナとレイチョウはキャッキャッと走り回っているのかしら、Raleighの仲間たちはまた元の日常に戻って忙しくしているんだろうか、とこの60日間で出会って好きになった人々の存在が心のどこかにいて、ぼーっとしているとふと彼らの過ごしている時間に思いをはせてしまうのです。今後このRaleighでの経験がどのように人生に影響してくるのかはまだわかりませんが、私がこうして日本での日常を生きている間にも、アフリカでは、イギリスでは、スペインでは、ドイツでは、バミューダでは、共に過ごした家族や仲間が別の日常を送っていて、そのことが私の中の世界地図を広く、色彩あるものにしてくれました。

Raleighのプログラム自体は9月7日に終わり、その後2週間はダルエスサラームにある友人宅やザンジバルにある友人宅でホームステイをさせてもらい、青年海外協力隊の隊員の村を訪れたりしていました。そのあたりの話は報告会でできればと思います。

最後にはなりましたが、高野先生、RJSのみなさまをはじめ、渡航を支えてくださったすべての方に感謝申し上げます。アサンテサーナ!(ありがとうございました!)